躍進する全断連

全断連の誕生

会員わずかに2名で発足した「断酒会」誕生の秘話

アメリカでのAAが、禁酒法の廃絶という、いわば禁酒運動の限界が実証された時期に、酒害者の間から芽生えたのに対し、日本に於ける断酒会の誕生は、禁酒運動家の積極的な助力に負うところが大きい
日本の禁酒運動も歴史は古く、明治20年に京都反省会が結成され、同23年には東京禁酒会が発足、同31年には日本禁酒同盟が結成された。また、京都反省会は浄土真宗の信者による組織であり、同一組織内に断酒部門と節酒部門を持っていたため、短期間で消滅した。
最初にAAの存在に気づいたのは、禁酒同盟の山室武甫(のちに全断連顧問)である。山室は昭和25年、禁酒新聞にAA運動を紹介、同27年にはエール大学のアルコール研究夏期学校に日本人としては初めて参加。この機会にAAの講義と例会の実演を聴講。その重要な役割と国際的地位、名声を確認して帰国した。同じ年、名古屋の大辻君子が戦後初の禁酒使節としてAA本部を訪れ、東京・本郷中央会堂の牧師武藤健もパリで開かれた国際禁酒会議に日本代表として出席した帰途、アメリカでAAの冊子を手に入れ、それぞれが禁酒新聞等を通して報告した。
こうした禁酒同盟の酒害相談所に出入りする人たちを主体に、AAの日本版をつくる機運が高まり、昭和28年9月、禁酒同盟の中に日本で初めての断酒会として「断酒友の会」(会長・上堀内秀雄)が発足した。しかし、家族、文化、その他さまざまな国民性の違いと、禁酒主義者の庇護の中での活動であったので、4年あまりで挫折した。 そして、その後の昭和32年12月、組織を改めて「東京断酒新生会」(委員長・大久保勇)として再発足した。
また、昭和33年9月には、禁酒同盟の小塩完次が、高知市のクリスチャン中沢寅吉の招きによって高知市で禁酒講演をし、アメリカのAAと東京の断酒会活動について詳細に報告した。これが導火線になって、昭和25年よりアルコール中毒の治療をしていた下司孝麿医師と、元患者である松村春繁が中心になって、同年11月「高知県断酒新生会」が結成された。会員わずかに2名、その1人である松村春繁がのちに、全断連の初代会長となった。
東京、高知の2つの断酒会とも、禁酒同盟が媒介したAA方式に強く刺激されて発足したわけであるが、運営にあたっては、当初から日米間の文化、思想、宗教観の差によって生じる障害の排除を模索した。その結果、AAの非組織、匿名、献金制の三原則を捨て、組織化、非匿名、会費制によって運営するなど、AAを手本としながらも国民性に適合した、「日本的な断酒会」への性格づけが行われた。