躍進する全断連

全断連結成

結成まで

昭和28年の「断酒友の会」32年12月5日に東京断酒新生会となる)、33年11月25日の「高知断酒新生会」発足と、2つの断酒会が誕生することで、全日本断酒連盟結成への条件が芽生えたが、さらに両断酒会の家族の交流と、機関紙の発行という動きが、全断連結成への機運を高めた。
家族会の交流
昭和35年12月、東京に大野卓子を会長とする白菊禁酒婦人会(現在の東京白菊婦人会)が発足。 同37年 8月、大野卓子ら9名が高知県断酒新生会の家族と交流するため高知を訪れた。これを契機に高知にも、「夫を酒から守る婦人の会」が結成された。また、交流をかねた結成大会には氏原一郎高知市長も参加して、家族の協力の重要性を説いた。
機関紙発行
36年11月、下司病院が「新聞断酒」(発行人下司孝麿、編集人松村春繁)が発刊。37年 8月より、発行所を高知アルコール問題研究所に変更した。全断連結成以後は全国の断酒会、医療機関、行政関係者にも発送され「連盟の機関紙」としての役割を果たした。47年 8月、全断連高知分室の廃止とともに118号で廃刊。